そんな後ろ姿を私は見つめていた。彼は部屋着のままだった。ティシャツから水が滴り落ちては彼の歩いている道を作る。短い髪の毛からも水が滴り落ちてティシャツを濡らしていく。線は細いが肩の張った背中が少しづつ私から遠ざかって行く。そんな後ろ姿がたまらなく愛しくて、涙が止まらなくなる。あふれては落ちて、あふれては落ちて。
なぜ私はあんな愚行をしてしまったのだろう。待っていれば、私はこんな素敵な人と出会えたのかもしれない。あんなことをしなければ、私はこの人と並んで歩いていたのかもしれない。陽が差す暖かい道を。手を繋いで。そしてそんな二人を裕也が追いかけてくる。
そこには大きな犬もいるのかもしれない。そして裕也と共に私達を追いかけてくる。そこは海辺の砂浜。その先には白い家。そこで私達は私が作ったランチを食べる。
私はいつだって、自分で自分を孤独にしているのだ。生まれた時も、そして今も。
お兄ちゃんがいたら、私はどんな人間として、どんな生活を送っていたのだろう。
お兄ちゃんはもしかしたら誠のようになっていたのかもしれない。そんなことを思う。思いながら私は誠の背中を見つめていた。
なんて尊い背中なのだろう。なんの汚れもなく歩いてきた人。人を何人も救ってきた人。今までも。そしてこれからも。あなたはそうやって歩いていく。汚れなど全く知らない人。綺麗な心のまま生きていく人。
でも、私は違う。
私は汚れているのだ。私の手はもう汚れてしまっている。この人を道連れにするわけにはいかないのだ。
「私!」思わず私は叫んだ。
誠が振り返る。
「い、樹さんの身体を押したのは私なの! 凪じゃない」
もういいと私は思っていた。
これも全て作戦で、凪の計画通りだとしても、もうそれでもよかった。
誠が命を張って助けてくれたから。
たとえば私がいなくなってしまったら、凪はあそこから出られるチャンスを失ってしまう、そうすると凪と結婚できないから、だから私を助けた。のかもしれない。
でも、もうそれでもよかった。
私なんかより凪の方がずっとずっと綺麗だ。心も体も。
結局、凪に勝っても私は全然嬉しくなかったし、何も手に入れてなかった。手のひらに必死になって握りしめていたのに、そこには何もなかった。何も。貴子が病院に入ったと聞いても何も感じなかった。ただ虚しさだけが私を覆い尽くし、私の周りだけ生ぬるい風が吹く。もう私のこれからに爽やかな風など吹いてこないだろう。私の周りだけ大きな壁があって、それを私はどうやっても越えられないのだ。私が流す涙は泥臭く、私が発する匂いは生臭く、私が吐く息は煙のように濁っている。
「私が押したの。全部私が計画したの。私は犯罪者なの、凪じゃないの」
私の瞳から涙がいくつもいくつもこぼれ落ちる。
「だからもう帰れない。誠さんの家には帰れない」
すると、誠がしばらく私を見ていて、ふっと小さく息を吐いた。そのまま足を動かしてゆっくりとこっちに歩いてきた。そして私の目の前で止まった。
「なんか言った? ごめん聞き取れなくて」
私は何も言えず誠の顔を見つめている。
「とりあえず帰ろっか。裕也がお腹空かせて待ってるし」
誠が手を私の方に差し出してきた。
本当にこの手を掴んでいいのだろうか。私は迷う。掴んでしまったら、もう私はこの手を離せなくなる。誠の手を引っ張って、地獄まで連れて行ってしまうかもしれない。
こんな私が、こんな綺麗な手を掴んでいいのだろうか。
「行こう」誠が言う。
私はそんな誠の顔を見つめている。
「早く立って」
私は目の前に差し出されている誠の手を握った。
おわり