そう……」私は彼の横に座った。
「もし、あの患者が亡くなるようなことがあれば俺のせいかもしれない」
「まだわからないんでしょ。そんな風に考えるのは良くないわ」
「お前に何がわかるんだよ」
「そうだけど……」
「医者なんていつもギリギリで生きてるんだ。毎日、毎日、失敗したらどうしようって」
「うん……」
「お前、人を殺したことなんてないだろ?」
不意に誠が真剣な顔で私を見つめる。
「な、ないけど」
「俺はある。研修医の頃、血管間違って切っちゃって」
「それは殺したわけじゃないでしょ」
「同じだよ、人の背中を押すのも、人の血管を切り裂くのも」
そう言った誠の目が光ったような気がして、私は誠の視線から思わず目を逸らした。
「俺も秘密を暴露したんだから、お前も言えよ」
「私は別に」
「いい子ぶるなよ」誠の顔がいつもと違う。私は誠の顔を凝視した。
「どういう意味?」
「お前の秘密教えて欲しい。もうすぐ夫婦になるんだから。お互いの秘密を共有したい」
「秘密って」
「いいだろ? 誰にも言わないからさ」
私は誠の顔を見てから目を閉じた。私のすぐ目の前で道が崩れ去っていくのが見えた。そんな私の後ろでも崖が今にも崩れそうに揺れている。
結局、私は前にも後ろにも進めないのだ。
ずっと同じ所で立ち止まっていないといけないのだ。
そう思うと、思わず笑いが出てしまった。
「狼がおばあさんの仮面を脱いだ瞬間か」私が言った。
「は?」誠が私の顔を見る。
「わかってたの。わかってて、あなたを選んだ。ほんの僅かな希望と共にね」
「……」
「これはきっと偶然だって、偶然に間違いなんだって」
「何言ってんの?」
「はぁー」ここで私は大きな息を吐いた。「結局、こういうことか」
「だから、さっきから何言ってんだよ。お前」
私は誠の顔をじっと見た。
「何言ってるか、わからない?」
「は……」
誠が私の視線から目を逸らした。
「終わりはあっけないもんだね」
「は?」
誠が私を見た。
「人の繋がりってなんなんだろ。結局一緒に暮らしても、話をしても、つながらないものは繋がらない、だってないもんはないんだもん」
誠はそんな私の顔をじっと見ていた。その目は微動だにしない。
「人を殺したことがあるかって聞きたいのなら、ありますって答えるよ」
「え?」誠の目が見開く。
「私ね、生まれた瞬間にね、人を殺してたの。それも双子のお兄ちゃん」
誠は何も言わない。
「もし生きてたら、お兄ちゃんはどんな人だったんだろう。誠さんみたいな人かな、それとも樹。ううん違うね、そんなんじゃない。きっともっと優しくて、いつも私の味方で、私が虐められていたら、私を助けてくれるヒーローで、だって双子だもんね、お兄ちゃんがいたら、私、こんなに孤独じゃなかったのかも。バカだね、私、そんな大事な人を殺してるなんてね」言いながら涙が溢れてくる。その涙は頬を伝って落ちた。
「莉子……」誠が言った。
「だからね、私、愛される資格なんてないし、裕也くんのそばにいる資格もないんだよ」
「莉子……」誠は呟くだけで、体が動かないようだった。
「疲れたからもう寝るね」私はそう言って自分の涙を手の甲で拭って、寝室の方へと足を動かした。
「おい、莉子」誠が呼び止めるが、私はそれを無視して寝室のドアの前に行った。「おやすみ」
「待てよ」そう言って彼は立ち上がって私の腕を掴んだ。「他にも何かあるんじゃないか」
「ないです」
「は? あるだろ、もっと重要なことが」
「ありません」
「言ってくれよ、頼むよ。夫婦になるんだからさ」
「だってないんです」
「じゃ、夫婦になれないな」
「そう言うんならそうですね」
誠が私を睨んだ。「お前の俺に対する気持ちはそんな程度か」
「同じセリフを返します」
「お前な!」彼が私の頬をぶった。
私は驚いて頬に手を当てて彼の顔を見た。思わず怒りで肩が震える。「私は! こんな風に生きてきたけど、でも暴力だけは受けたことなかったです」
それでも誠の目は私を睨んでいた。
「最初から結婚する気なんてなかったでしょ?」
私が言った。
それに誠は答えない。
「それじゃ、おやすみなさい」
私は誠に背中を向けて裕也の部屋へと向かった。ドアを開けると薄暗い部屋に悠太の寝息が聞こえてきた。私はその中に入り、裕也の寝顔を見つめた。
「ごめんね、お姉ちゃん、もうそばにいられない」
それだけ言って、裕也のおでこに手を当てようと伸ばした手を引っ込めた。そして裕也の部屋を出た。そのまま私は寝室に行き、寝たふりをした。しばらくすると誠が部屋に入ってきて、私の隣に入り眠り込んだ。そのまま私はしばらく目を閉じていた。やがて誠の寝息が聞こえてくる。私はそっとベッドから出て自分の服をいくつかクローゼットから抜き出し、リビングで着替えた。そしてメモ帳に「今までありがとうございました」とだけ書いて外に出た。
外は真っ暗でどこに行っていいかわからなくなる。雨も降っていた。傘を持ってくるのを忘れて一瞬取りに帰ろうかと思ったけれど、それは出来なかった。なのでとりあえず駅の近くのホテルをとり、カビ臭いビジネスホテルで一夜を明かした。
朝になりあまり美味しくない朝食を取り、私はホテルを出た。雨は上がっていた。雨上がりの澄んだ空気が私の周りで蠢いていて、鳥が羽ばたき、虫が這っている。空気が白く透明で、大きく吸い込むと、私の肺まで到達して、色んなものに包まって私の口から出ていく。その空気はきっと汚い。この世界に蠢く全ての人間の口から出てくる息は汚いのだろうか。それを綺麗にしてくれるのは鳥だったり、虫だったり、木々だったりするのだろうか。そんなことを思いながら、その足で刑務所まで行った。そこで凪との面会を申し出る。お昼頃、ようやく凪と会えた。
「何?」凪が私を睨む。
「誠さん、あんたの差金だよね?」
「は?」
「誠さんに出会った時から、私、知ってたの」
「嘘ばっかり」
「あんたの部屋で見たから、卒業アルバム。それに誠さん、映ってた。出会った時はなんか見たことあるなーぐらいだったけど、誠さんが私に近づいてきた時点で分かった」