私は室外機の隅に座り、スマホで見たくもないネットを見ながら彼らを待った。できれば夕食前に来てほしい。そうじゃないとせっかく飲ませておいた薬の成分も切れてしまう。
スマホの画面が七時十五分を指した。そこで屋上のドアが開く音がした。
「来た!」と私は呟いていた。胸が急にドクンドクンと音を立て始める。
「わぁー、すごーい」凪の声で間違いない。
樹はこの日まで凪をここに連れてこなかったのか。よほどここは大切な場所らしい。
「だろ?」
「こんなところにあるなんてね」
私は確認のため、声がする方を覗いてみた。やはり凪と樹だった。運は私の味方だ。
「この時間からここを眺めてると、ゆっくりと少しづつ闇が落ちてきて、それと同時にゆっくりと明かりが少しづつ灯っていくんだ。それをみてるだけで心が和むんだよね」
「へー」凪は風景を眺めている。
そこへゆっくりと樹が近づいていき、後ろから凪を抱きしめた。
「大事なこと言うよ、でももう少し闇が落ちてきてからの方がいいかな」
「うん、そうね」
「あそこの」樹が指を指した。そっちの方を凪が見た。私も見た。そこにはタワーが一本立っている。「あそこのてっぺんに灯りが点いたら、言うから」
「それじゃ、それまで何しよっか?」
「タイタニックでもする?」
「えー」
樹が彼女を後ろから抱いたまま、彼女の両手をとって広げてみせた。
「もう少し前へ行こうか」
そのまま二人はゆっくりと前に進む。そして五センチほどの塀の上に立った。その先には十三階下の地面。
「怖い」
「下を見ないで。まっすぐ前だけ見て」
こいつはこれをしたいがために、この場所をとっておきの場所にしているだけなのかもしれないと私は思った。
「本当に飛んでるみたい」
「だろ?」
しばらくそこで二人は手を広げたまま佇んでいたが、やがて凪が口を開いた。
「ちょっとトイレ行っていい? 今日はなんだかちかくて」
「緊張してる?」樹が笑う。
「みたい」
「すぐ下にあるよ」
「うん」
「一緒に行こうか」
それを聞いて私の胸は大きく上下した。行くな、行くな、行くな。私は念仏のようにそれを唱えていた。
「大丈夫、ちょっと待ってて」
「うん」
凪は小走りでドアまで行き、素早くドアを開けて閉めた。ドアが閉まった音がバタンと大きく響く。階段を降りていくその音がここまで響いてくる。よっぽど行きたかったに違いない。薬の成分がようやく効いてきたみたいだ。
今だ! 私は室外機から出て、樹の元に向かった。私の足音に気づいて樹がこっちに体を向けて私の方を見た。
「お前!」樹が言う。
「見てろって言ってたから見にきたの」私は言いながらどんどん彼に近づいていく。
「こんなとこまで」彼がそんな私を見て、一歩後ろに後ずさった。
「これ」私がグーをしたまま彼の方に手を差し出した。そしてすぐ彼の前まで行った。
「え?」と彼が私のグーした手元を見る。その手には薄い手袋。
「今、預かってきたの、凪から」
「え? なんで手袋?」
「私の手で汚しちゃ悪いから」
戸惑いながらも彼はそれを受け取ろうと手を出してきた、それを彼に渡してすぐにその手を私の手で覆って彼の手を握らせた。「まだ見ちゃ駄目だって。彼女が戻ってきてからだって」
彼が不意に体から緊張を解いた瞬間、私は彼の背中を思い切り押した。
彼の体がグランと揺れて、「うわっ!」とかなんとか一言叫んだまま彼は真っ逆さまに落ちていった。その後鈍い音が一つ聞こえてきたけど、私は下を見なかった。そして小さな袋に入れていた、ボタンを引きちぎった時の糸の小さなほつれを五センチほどの段差の前に捨てた。そして私は室外機の元へと走り身を隠した。そこへ凪が戻ってきた。そして樹の姿を探してぐるぐると周りを見渡した。
「あれ、樹? どこに隠れてんの? ねぇ樹?」
それでも樹の姿はない。
「あれ?」
しばらく凪はそこで突っ立っていた。
私はそこで、下を見ろと念仏のように呟いた。
凪がスマホを手にする。ここで電話をされてはあまりよくない。
そんな時、下から「きゃあ!」と声が聞こえてきた。
そこで凪の手が止まる。
「なんだ!」と男の声が聞こえてきて、「きゃあ」とまた女性の叫び声が聞こえてきた。
凪が恐る恐る下を見た。そして息が止まったかのように一瞬体が硬直する。
その次に凪はどう動くのか。
凪は落ちている誰かの姿を確認して、すぐにその場を離れていった。駆け足でドアに向い、ドアを開けてそのまま階下へと降りて行った。そして樹が落ちていた正面入り口とは反対の非常ドアを抜けて走って行った。その凪の行動を見て、あぁ凪は本当に樹のことを遊んでいたのだなと理解する。本気の相手だったら逃げたりしないから。それともあまりのことに気が動転していただけなのかもしれない。人は想像もしない現実を目の当たりにすると、時々理解不能な行動を起こすのだそうだ。
その後のことは知らない。多分、そのまま家に逃げ帰ったのだろう。
私の思った通り二人が動いたので、私は思わず笑ってしまった。
運は私の味方だった。