ボタンを手にした後、私はそっと部屋を出て、廊下を小走りで進み、階下へと降りた。まだリビングには誰かがいる気配はない。すぐに私は廊下を抜けて玄関で靴を履いた、そして玄関ドアをそっと開けて外の様子を見てみた。庭からまだ水の音がしている。私にはすごく長い時間だったように感じるが、実際は五分ほどしか経っていないのかもしれなかった。私は康太に見つからないようそっと玄関を出て門までゆっくりと進み、それからそっと門を開けて出た。その間ずっと水の音がしていて、康太の鼻歌が聞こえていた。
私はすぐさま走り出し、十字路を駅とは違う方向に曲がって走った。その時、誰かとすれ違ったけど、知っている人ではなかった。そしてまた十字路を右に向かって走った。そこで体力の限界を感じて足を止めた。額から汗がいくつもいくつも流れ落ちて、それを私はハンカチで拭って息を吐いた。手の中にぎゅっと握りしめていたものを見るために手を開いた。そこには薄い桃色の布に包まれた小さくて丸いボタンが手のひらで眠っていた。
そしてボタンの金具に太陽の光が反射して、きらりと光る。それが眩しくて私は目を瞑った。
そして私はもう一度樹に会いに行った。嫌がられることは承知の上だった。電話やメッセージではだめだ。記録に残ってしまうから。どこかのカフェもだめだ。防犯カメラに映ってしまうから。だから会いに行くしかなかった。そこで何かを聞き出せればいい。
樹のマンションの前だと防犯カメラがあるので、そこから少し離れた古びた一軒家(誰もすんでいなさそう)の前で私は待っていた。当然何時に帰ってくるかわからない。私はひたすら彼の帰りを待ち続けた。遅くなるだろうと覚悟していたら、樹は意外に早い時間にこの前を通った。慌てて私も声を掛けた。
「斎藤さん」
樹の背中がびくんと上がって、立ち止まる。そしてゆっくりと振り返った。
「何?」その目が私を捉えるまでに、それが私だとわかっているような顔だった。
「あの、すみません、余計なことかなーとは思ったんですけど」
「なんだよ!」彼が言葉を放った。
「やっぱり凪、本気じゃないと思うんです」
「余計なお世話だよ。なんでお前に分かるんだよ」
「いえ、あの、だって高校の時も」
すると樹が私にすごい勢いで近づいてきて、「お前、あいつと話したことなんて一度もないんだろ、相手にされてないもんな、姉なのにな、辛いよな」
私はすごい勢いで近づいてきた樹の顔をじっと見ていた。顔がすぐ前まで来ている。
「余計なお世話なんだよ。お前が心配しなくても、俺、この前プロポーズしたんだよ」
「凪はなんと?」
「お前に関係ないだろ」
「気をつけてください、凪は思わせぶりにギリギリまで引っ張って」
「土曜日に返事くれるんだよ。ちゃんと決めてるんだ。お前心配なら見てれば、遠くで」
「遠くで見ても凪がなんて言ってるかわかりません」
「凪がオーケーだったら、お前、俺のこと諦めてくれるのかよ」
「はい、もちろんです。私はただ樹さんが凪に遊ばれていないか心配で」
「お前」樹が私にグッと顔を近づけてきた。「お前と一緒にすんなよ。俺はね、遊ぶ側なの。遊ばれる側じゃないの!」
「でも……」
「遠くで見てなよ。あいつオーケーだったら、俺の母がデザインしたワンピースを着てくるから」
「え?」
「桃色のワンピース」
「はぁ……」
「俺の母もお気に入りなの。あいつのこと。だからお前が入る余地なんて」樹が片手を上げて親指と人差し指をくっつけて見せた。「これっぽっちもないわけ。じゃーな。もう二度と来んなよ」
樹は私に背中を向けて歩き出した。
私はその背中にか細い声で語りかけた「斎藤さん」だけど私の顔は笑っていた。いいこと聞いたなって思っていた。あの男は男のくせにおしゃべりすぎる。男でおしゃべりなのにろくなやつはいない。そのおしゃべりが身を滅ぼすことに気づいていないのだ。気づいた時にはもう遅いけど。