それからの私は普通に旅行にも置いていかれるようになった。置いていっても平気そうにしていた私の顔を見てタガが外れたのだろう。留守番がいないと心細いと言われて置いていかれた。絶対に外に出るなと念を押された。誰が来ても家にあげるなと鬼のような顔で言われた。あの瞬間から、私の心の中は空っぽだったに違いない。だから留守番を頼むと言われて置いていかれても、何も感じていなかった。あのどす黒い感情を必死で振るい落としたあの瞬間から、私は空っぽになったのだ。そうすることでしか私は生きていけなかったのだ。
違うかもしれない。もう私はとっくにあのどす黒い何かに飲み込まれているのかもしれない。そしてどこかの果てに流れ着いているのかもしれない。
次の土曜日、樹は仕事だというので、私は静かな日を過ごした。本を読んでコーヒーを飲み、気が向くと散歩に出かけた。夕食にオムライスを作って食べて、本を読もうとページを開いたところで電話が鳴った。相手は樹だった。
「出てこないか?」と彼が言うので、私はすぐに承諾し、シャワーを浴びて出かけた。指定された駅前に着くと彼がすでに駅前で待っていた。人工的な明かりが駅前を支配し、そこにわらわらと溢れる人がいた。夜に出かけることがほぼなかった私は足を踏み出すことに一瞬躊躇したが、彼がこっちを見て手を降ってきたので、そこまで走って行った。彼の前に着くと、彼が足早に歩き出したので、私もそれに着いて行った。
「今日はさ、君を連れていきたいところがあるんだ」
「どこ?」
「着いてくれば、わかる」
「……うん」
それからどれくらい歩いただろう。まだ新しめな雑居ビルに着いた。十何階階建てぐらいの、この辺りにしては比較的小さなビルだった。
「ここ」彼が雑居ビルの入り口を開けて入っていく。それに着いて私も歩く。エレベーターのドアが開き中に入る。少し狭くて息苦しい。閉所恐怖症の人には嫌な場所かもしれない。彼が十三階のボタンを押す。そこが最上階らしい。
しばらく待つと、ドアが開いた。そこを出て彼はまだ歩く。すると非常階段の看板が見えて、そのドアを彼が開く。すると階段があった。小さな蛍光灯がその階段を細く緩く照らしている。それを彼は上がっていく。私もそれに着いていく。またドアがあってそれを開く。すると眼前に開けた空間があった。
「わあー」思わず声を漏らした。
「来て」彼が私の手を掴んで、屋上の端へと誘導する。そこまで行くと、そこには高層ビルが建ち並び、その向こうには聳え立つ山が見えた。高層ビルの小さな窓からはそれぞれに光が溢れ、その向こうでは電車が走っていた。そしてこのビルがすごいのは屋上の周りを囲む塀がないことだった。足元には五センチぐらいの小さな段差しかない。
「すごく綺麗」
「だろ」言いながら彼がその五センチの段差の上に立った。
「危ないよ」
「平気さ」
「高い所、怖くないんだね」
「君は?」
「私も平気な方」
「じゃ、来なよ」
私も恐る恐る足を伸ばし、そこに立ってみた。
「すごい」
「ここに立つと、あれ、したくなるよね」
「あれ?」
「ほら」言いながら彼が手を広げる。「あれ」
「あれ?」
「タイタニックだよ」
「タイタニック?」
「え? 知らないの」
「……すみません」
その時、少し彼の目の色が変わった気がした。私を見るその目の色が。
「君って」彼が笑う。「ほんとに何も知らないんだね」
「すみません」
「まぁいいけど」
彼が言ってから、一度段差を降りて私の背後に立った。そして私の背中から両手で私の両手を取った。それを左右にグッと伸ばす。
「これ、タイタニックの有名なシーンなんだよ。船の上でこうやって空を飛んでるみたいってやるんだよ」
「そうなんですね。でもなんかそんな気がしてきます。怖いのに気持ちいい」
「だろ?」
「はい」
俺、ここで決めてることがあるんだ」
「何ですか?」
「まだ今は内緒」
「そうですか」
彼は私の両腕から手を離して、私の手を掴んで引っ張った。私は段差から降りた。
「ここ、花火もよく見えるんだよ」
「確かに、見えそうです」
「また来ような」
「はい」
私たちは階段を降りてエレベーターに乗り雑居ビルを出た。
その後、夕食を終えていない彼に付き合って居酒屋に入り、私はジュースを飲みながら彼の頼んだお惣菜を時折口にした。
「それにしても」彼の口にからあげが入る。「君たちってほんとに似てないね。ほんとに姉妹?」
私はそれに何も返せないでいると、「あぁ、ごめん」と彼が呟いた。
「あぁ、いいんです。言われ慣れてますから」
「凪ちゃん、派手だしね」
「今時の大学生ですよね。青春を謳歌してる感じ」
「羨ましい?」
「いえ、全然」私は笑った。「私に青春なんて元々ないんです」
「ふーん」彼がビールを一口飲んだ。「僕は君のその前髪ぱっつんで黒髪なとことか、その一重のつぶらな目とか好きだよ」
そう言われて思わず私は俯いてしまった。その先から顔が赤くなっていくのを感じる。
「そういうところも」彼が言った。