春翔〜HALCAL〜

春を翔るように、徒然なるままに表現します。

フロム•ゼロ 14

それから一週間、時は慌ただしく過ぎていった。樹が早く引っ越して来なよと言うので、迷いに迷ったが、彼の好意に甘えることにしたのだ。会社ではこのことはまだ内緒で、川上にもまだ言っていないと彼は言っていた。

 それはいいのだが、彼が言った一言が私の胸を締め付けていた。

「一緒に暮らすにあたって君の両親にご挨拶したい」

 私はそれを聞いてから、仕事も手につかず眠れない日々を過ごすようになった。

 彼と会うたびに、彼が早く両親に会わせてよと急かす。このまま濁していけないかとも思うが、それもできそうにもない、一緒に暮らすことを先延ばししようと考えた私は、ある日の夜、彼にそう言った、

「どうして?」と彼は聞いてきた。

「まだお互いのことよく知らないですし」私が言うと、

「知らないから一緒に暮らすんじゃない? そうしてゆっくり知っていけばいいんだよ」と彼が言った。

「ええ、そうなんですけど」

「でも、ま、君がそう言うなら無理強いはしないよ」彼が口にタンシチューを運びながら言った。

 今日は私の手料理をご馳走している。本当はタンシチューなんて作ったことないけれど、クックパッドを見ながら作った。意外と美味しく出来たと思う。

「いいんですか?」

「うん、無理しなくていいよ。同棲だもんね、付き合う付き合わないとはまたちょっと違うよね。てかこのタンシチュー、めっちゃ美味いじゃん、やっぱ料理上手だった。俺の目に狂いはなかったな」

「いえ、そんな」私は彼のそれを聞いて肩を撫で下ろしていた。

「でもさ、君の両親にはご挨拶させてね」

「え?」私の口が止まる。

「だって、君の初めての相手でしょ? 俺、いや、その変な意味じゃなくて。初めて付き合う男ってことなんだけど」

「ええ、まぁ」

「じゃ、ご挨拶させて欲しいな。結婚前提のお付き合いってことだし」

「ええ……」

「君がそんな家で育ってきたのか知りたいし」

「ええ……」

「君をもっともっと知りたい」

「はい……」

 私をもっと知りたいだなんて。私は顔を赤らめて俯いた。

「僕はいつでもいいから」

 逃げられないなと思った私は覚悟を決めた。

「ちなみになんだけど、君の父親は何をしてる人なの?」

「ええ、商社の重役です」

「へーすごいな」

「母は専業主婦です」

「そっか」

 そう言って彼は微笑んだ。

翌日、私は母親の貴子に電話をした。

「何、急に?」貴子が電話口に出る。

 声を聞いたのは何年振りだろう。

「お久しぶりです」

「あぁ、で?」

「あの、その」

「何? こっちは忙しいんだけど」

「はい、すみません、あの会って欲しい人がいるんです」

「はぁ?」

「あの、今、お付き合いしてる人がいて、その人がどうしてもって」

「は? あんたが誰と付き合おうが別にこっちはどうでもいいんだけど」

「け、結婚前提なんです。いずれ結婚するんです。なので」

 ここまで言うと、彼女の声色が変わった。娘に興味などないし、愛情もない、でも結婚するとなると話は別なのだろう。一応私も娘だから、変な男が自分の家に関わるなんてことを許さないはずだ。

「土曜日の午後なら空いてるわ」

「ありがとうございます」と言い終わる前に電話は切れていた。

 

 土曜日はよく晴れていた。雲一つない空が青く広く澄み渡る。青い蝶々が私たちの前をひらひらと横切り、木の葉が揺れて、昨日の雨粒を一つ落とした。それが光に照らされてキラキラと光りながら落ちていく。それとは対照的に私の心は曇っていたが、いずれにせよ通らなければならない道なのだ。いや、樹と出会うまでこんなこと考えもしなかったけれど、誰かと結婚するなんて考えたこともなかったし。私は一人でただ生きている状態のまま過ごし、いずれ一人で朽ちていくと思っていたから。

 私の人生にこんな素敵な人が現れるなんて。そう思いながら彼を見上げると、彼は空を見上げていた。

「いい天気だね」彼が私を見て言う。

「はい」私が答える。

 綺麗なものを見て、綺麗だねと笑い合い、いい天気の日はいい天気だねと笑い合い、美味しいものを食べれば美味しいねと笑い合う。そんなことができる人が現れるなんて。私は今でも不思議なのです。

 家の間の前に着くと、私は緊張で喉の渇きを覚えていた。久しぶりに見た実家は以前と変わりなく、そこに佇んでいた。

 彼がそんな家を見て「でかいね、想像以上だ」と言った。

私は門の目の前に立ち、そこで大きく深呼吸してからブザーを押した。2回押しても反応がない。もしかして留守なのかも。それとも居留守? そう思いながらもう一度ブザーを押した。そこでようやく反応があり「はい?」との声が聞こえてきた。

「莉子です」そう言うと、しばらくしてから門が開いた。門を開けて足を踏み入れる。その先に階段が四つほどありそれを上る。そしてまた扉。その前まで来てまたブザーを押す。そこまで来ても、私はこのドアが開かれるのか不安だった。二回押して数秒待つ。ようやくドアの向こうで音がして、ドアがゆっくりと開いた。

 そこには貴子ではなく妹の凪が立っていた。妹が立っているなどと思っていなかった私はちょっと驚いて言葉が出てこなかった。凪とは私が家を出てからずっと会っていない。家を出た時の凪はまだ十五歳だった。その時すでに女としての頭角は目覚めていたが、二十歳になったばかりの凪は女の子ではなく女だった。細さは相変わらずだが、女性特有のムチムチ感が伸ばした腕やスカートからニョキでた足を取り囲んでいて、胸の空いたブラウスからは胸の半分が顔を出していた。そして肌は透き通るように白く、顔と唇は光もないのにテカテカと光っていた。そういえばと思う。会社の松田の顔もこんな風にいつも光っている。この光は若さ特有のものなのだろうか。じゃ私も光っているのか、人から見れば私の顔もこんな風に光っているものなのだろうか。

 そこで玄関に飾ってある全身鏡に写っている自分の顔が不意に目の中に入る。そんな私の顔は黒く沈んでいた。

 妹はそんな私を冷めた目で一瞥して、「入れば?」と言った。「はい」私が足を動かして入る。その後に樹が入ってきた。彼の姿が凪の目に映る。その瞬間、凪の目の色が変わったのを私は見逃さなかった。そして樹を上から下まで一瞬で見下ろして、「こんにちは」と笑顔を見せた。

「あ、どうも、こんにちは」彼が言う。

「どうぞ、入ってください」凪が彼に言って、彼が靴を脱ぐ。その間に私も靴を脱いで上がった。

「妹さんですか?」彼が私に聞く。

「はい」と私が答える。

「えー、知らなかったな。妹さんがいるなんて、君言わなかったから」

「すみません」

「どうぞ、中に入って」

 凪に案内され、リビングへと入る。とそこに貴子が座っていた。そして私をじっと蛇のような目で見てからすぐに樹へと視線を移した。そこでまた目の色が変わったのを私は知っている。

「あら。こんにちは」貴子が彼に話しかける。

 

 

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