「え……」
「ほら、普通さ、美術館行かない? って誘われるとさ、あんま知らなくても興味なくてもそれを正直に言わないもんなんだよ。普通はね。だってほら美術とか興味があったりする方がなんていうか位の高い生活してますって顔できるというかなんというか。美術とか興味ないと雑な生き方してるって思われたりするじゃん」
「そうなんですね」
「やっぱ、おもろいわ。莉子ちゃん」
「えー、面白いですか? なんかこの前から申し訳なくて。なんに対しても興味が持てないつまんない女で」
「いや、いいよ。そんなの、人って趣味とかほら履歴書とか書くとこあんじゃん、あれにはっきりとこれですって書ける人少ないと思うんだよね。だからさ、ありきたりの映画鑑賞とか読書とかさ、そんなのしかないじゃん。実際俺もそうだしさ」
「はぁ」
「これから二人で見つけて行こっか」
「はぁ」
そこへトムヤムクンが運ばれてきた。それは初めて食べるもの。酸っぱくて辛くて美味しかった。
「美味しいです」
「だろ? 莉子ちゃん、辛いのも平気なんだね」
「私、こういう変わったもの食べたことないんです。正直に言いますと、私、誰かと食事なんてしたこともないんです。この前が初めてで。だから」
「そ、じゃ、これから俺が色んなとこ、連れてってあげる」
「はぁ」
私はスープを口の中に入れた。
「意味わかる?」
「何がですか?」
「君と付き合いたいってこと」
驚きのあまり、私は口の中に入れたスープを飲み込んでしまい、むせてしまった。
「大丈夫?」
「あ。はい。ゴホゴホ、大丈夫れす」
「ごめんね。急に、驚いたよね」
「はい」
「今すぐに返事しなくていいから、考えといて」
ようやく咳が止まり、私は彼の顔をじっと見た。
「何?」彼が言う。
「本気ですか?」
「本気だよ」
「なぜ、私なんかと」
「そんな言い方良くないよ」
「でも……川上さんにも聞いてもらうとわかると思うんですけど、私、会社でも浮いてるし、友達なんて一人もいないし、何にも興味がないし、ただ生きてるだけで」
「そう言うこと言わないの」
「でも」
「俺も同じようなもんだよ。友達ってつるむと友達って言うのかな? そりゃ飲みに行ったり、遊びに行ったりする人はいるけど、それって友達なんかな? って思う時もあるし」
「でも、斎藤さんはちゃんと生きてる。照明デザイナーなんて素敵な職業だし」
「じゃ、これからちゃんと生きればいいじゃん、俺と」
私は樹の顔をじっと見てしまった。吸い込まれそうな瞳がキラキラと輝き私を照らす。
もしかして、この人の輝きに照らされれば、私も少しは輝けるのかな。
「本当にいいんですか?」
「俺さ、こんなこと言うとまた引かれちゃうかもしれないけど、結婚前提に付き合いたいんだ」
「え?……」
「仕事柄、いずれは俺、独立して自分の会社を持つことになると思うんだよ、その時、そばにいてくれる人は君みたいな人がいい。君みたいな人、ずっと探してたんだ」
「私みたいなって。ただ生きてる人」
「違うよ。君みたいな真っ白な人」
彼はまっすぐに私を見た。その瞳に嘘はなかった。私はその場で頷いていた。
こんな私にも、こんな奇跡が起こるなんて。私は信じられない気持ちで目の前の彼を見ていた。大口でガパオライスを詰め込み、そして「美味い」と微笑む人。
「君も食べなよ」って言って、小皿に料理を取り分けて渡してくれる人。その度に光がキラキラと溢れる人。
そして思い出す。彼を追いかけて行ったあの日。自分の目の前の道を光が照らし、そして導いてくれるかのようにキラキラと輝く。まるで自分自身にもスポットライトが当たっているかのように、それは光り輝き、私と道を照らしていたあの日。
この道を渡ってもいいんですか? 私は誰もいないどこかに聞いていた。
その後、私たちはしばらく食事を楽しんで帰った。樹は家まで送ってくれた。私のボロアパートを見て引かれるかなって思ったけど、彼は感動していた。
「今どきの若い子がこんなとこ住んでるなんて」
「恥ずかしいです」
「中、見てみたいな。いや、変な意味じゃないんだけど、こういうアパートの部屋の中って興味あるんだよね」
「えー、別にいいですけど、汚いですよ」
「いいの? じゃ、お言葉に甘えて」
彼は満面の笑顔で私を見る。
「職業柄ですか?」
「何が?」
「こんなボロアパートに興味があるのって」
「うーん、どうだろう。そうとも言えるし、そうじゃないとも言える。個人的にも興味があったりするし」
言いながら彼は私より先にアパートの階段を上がっていく。
「どこ、どこ?」
「一番端です。向こうの」
彼は私より先に私の部屋の前に着いて、部屋のドアが開くのを今か今かと待っている。そんな様子が子供みたいで可笑しくて笑ってしまった。
「何?」彼が言う。
「子供みたいです」
「えー、そう?」彼が照れたように頭を掻いた。
ドアが開く。真っ暗な部屋が二人の目の前に現れる。私は電気を点けて彼を招き入れた。
パチパチと蛍光灯が目を覚まして、電気が点いた。私には見慣れたいつもの部屋。小さなシングルベッドとテーブル、そして本棚。それだけの小さな部屋。まるで何もない私自身を写しているかのような部屋。飾りもなく、きれいでもな
ない。
彼はしばらく部屋の中をキョロキョロと見回して、それからキッチンに行った。ところどころ錆びている小さなシンクにガスコンロ。ガスコンロはここに引っ越して来たときに取り付けたがすでにそれもところどころが汚れている。その上にはフライパンと鍋が置いてある。
彼はしばらくキッチンを眺めていたが、足を動かして洗面所のドアの前に立った。そして振り向く「ここも見ていい?」
「どうぞ」と私は答えた。それなりの掃除はしている。後はこの部屋が持っているものだから隠しても仕方ない。
しばらく彼は洗面所でお風呂を覗いたり、トイレを覗いたりしていたが、ようやく満足したかのように畳の上に座った。
「コーヒーでも飲みますか?」私が立ち上がると、「いや、大丈夫」と彼が言ったので、私は座り直した。
「綺麗にしてるね」と彼。
「掃除はしてますけど、かなり古いので大変なんです」
「どんな?」
「雨の日は雨漏りしますし、夏になると、その、あれとか出ますし。それとの戦いで疲れ果てるんです」
「あぁそれはやだね。こういうのってちょっといいなって思ったりするんだけどさ、情緒があって、でもあれだけは俺も苦手なんだよな」
「ですよね。もう何をしてもダメなんです。色々対策したんですけど、もうあれの生命力には脱帽です。完敗です」
彼は声を上げて笑った。私も釣られて笑った。そんな私を彼がじっと見る。
「え?……」
一瞬、すごく変な顔をして笑ったのかなと焦った。私ってどんな笑い顔をするのか、自分自身でさえ知らないのだ。あまり笑ったことがないから。
「初めて笑った」
「え?」
「出会ってからずっと君の笑顔見てなかった」
「そう……ですか?」
「可愛いじゃん。君の笑った顔」
そんなこと言われたのが初めてで、私はまた顔が赤くなって行くのを感じていた。そんな私に彼の顔が近づいてくる。どんどん近づいてきて、あぁ、これはもしかして俗に言うキスとかってやつだろうかと思うと、心臓がやけにどくどくしてきて、顔の火照りが一層強くなる。そして彼の顔が私の顔の真ん前まで近づいてきて、私の唇と彼の唇が触れた。その間、数秒。人間の唇ってこんなに柔らかくて温かいんだなって思った。不意に彼の顔が離れる。そして私の目元に手のひらを持ってきて、目元を手のひらで覆い被さった。その手がまた異常に温かい。
「目は閉じるんだよ」
彼がそう言ったと思ったら、すぐにまた彼の唇が私の唇と重なった。そして彼の唇が離れた瞬間、彼が言った。「一緒に住もうか」
「え?」
「あれから解放してあげるよ」彼が笑った。
